「日々の積み重ねが未来に繋がる」
“魂のコーチング”アクシスエボリューション田中伸一です。
以前、このブログでも紹介しました森信三先生の「修身教授録」で、
特に印象に残った部分です。
この本は、森信三先生が、今でいう教育大学で学生に向けて講義したものを
まとめたものです。
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私は教育において、一番大事なものとなるのは、
礼ではないかと考えているものです。
つまり、私の考えでは、礼というものは、ちょうど伏さっている器を、
仰向けに直すようなものかと思うのです。
器が伏さったままでいますと、幾ら上から水を注いでも、
少しも内に留まらないのです。
ところが一たん器が仰向きにされると、注いだだけの水は、
一滴もあまさず全部がそこに留まるのです。
これはまさに天地の差というべきでしょう。
実際人間は、敬う心を起こさなければ、いかに優れた人に接しても、
またいかに立派な教えを聞いたとにしても、心に留まるということはないのです。
批評的態度というものは、ちょうどお皿を縦に立てておいて、
そこへ水を注ぐようなもので、なるほど一応湿りはしますが、
しかし水はすぐに流れて、少しも溜まりっこないのです。
そして結局は、濡れただけというのがおちというものです。
ところが、この喩えによっても分かるように、この「敬」というものは、
まさに自分の態度の根本的な転換だと言ってよいでしょう。
根本的には敬う心を現す以外にないわけです。
ところがこの敬うというには、敬うことろの対象がなければならぬ。
しかしこれは、最初から誰にでも見付かるとは言えないのです。
否、うっかりすると、生涯ついに敬うべき真の対象を見付け得ないでしまう人も、
少なくないでしょう。
そういう人は、つまり生涯器が伏さったままで終わる人です。
しかしこの敬う心を起こすということは、実際にはそう容易なことではないのです。
そこでその手がかりとして、ここに形の上から敬う心の起きるような、
地ならしをする必要があるわけです。
そうしてそれが、広い意味での「礼」というものの意味でしょう。
「敬」とはどういうことかと申しますと、それは自分を空うして、
相手のすべてを受け入れようとする態度とも言えましょう。
将来教師となって最も大事な事柄は、
まず生徒たちが、尊敬心を起こすようになることでしょう。
まず教師自身が、礼を正しくするということです。
次には内面的な道としては、教師自身が生徒から敬われるだけの人間になる
ということでしょう。
ではどうしたら生徒が教師を敬うようになるでしょうか。
それには結局教師自身が、尊敬する人格を持つということでしょう。
実際人々から尊敬されるような人は、
必ず自分より優れた人を尊敬しているものです。
そこで教育の根本問題は、どうしたら生徒たちが、
自分を尊敬するようになるだろうかなどと、あくせくすることではなく、
まず教師自身が、自分の尊敬する人を求めて、
生徒と共にその方の教えを受けるというような、
謙虚な態度から出発すべきでしょう。
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これは、将来先生になる学生に向けた言葉ですが、
子を持つ親、部下を持つ上司にもそのまま当てはまります。
すべては自分からです。
2010/10/05人材育成の考え方や方法